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〖山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム ③〗 in 熊本県球磨郡錦町

山の中の海軍の町 にしき ひみつ基地ミュージアム ② の続き記事です。

ひみつ基地ミュージアム (7)
ひみつ基地ミュージアム (7) posted by (C)furosky

早速、この〖地下魚雷調整場〗へと・・・入る前に、ここから見える前知識のお話が。

この地下壕が掘られている岩盤は、9万年前の阿蘇の大噴火のときに流れ込んできた火砕流の堆積物です。
なので、基本的に火山灰で出来ています。
硬度はありますが、触るとポロポロと落ちてくるという地質なので、掘り易い地盤です。
強度のある火山灰の堆積物のところと、シラスのようにサラサラ崩れるところがあって、崩落事故が起きているそうです。

岩盤に掘られた地下施設はここだけではなく、別の森を指さしながら、その側面にずーっと穴が掘ってあるというお話をされていました。
その総延長は3.9km、掘られた穴の地下施設が見つかっているのだそうです。

その中でも、今から入る穴が一番大きな穴で、
高さが5m、幅5m、総延長が233mくらいの地下施設です。

ひみつ基地ミュージアム (8)
ひみつ基地ミュージアム (8) posted by (C)furosky

この穴がそのまま開いていたら丸見えなので、ここには土嚢が積み上げてあって、間に人ひとりが通れるくらいの隙間を開け、
土嚢の側面を木の枝と葉っぱでカムフラージュして、山肌と変わらない様にしていたのだそう。

また当時のお話として、地元の方々は設営の方が一日に何千人と来られるので、そのときはご飯は全然なく、コーリャンを食べていたそうです。
コーリャンというのは、戦時中にお米の代用品として食べられていた穀物で、すっごく不味いのだそう。
その頃、白米は軍隊に全部出さないといけなかったので、地元の方はコーリャンを食べていたのだとか。
といっても、軍隊でも下の方の方はコーリャンも食べたのだそうです。


では、いよいよ地下壕の内部へ

ひみつ基地ミュージアム (9)
ひみつ基地ミュージアム (9) posted by (C)furosky

この線が入っているのは、手彫りの跡で、全く手を加えていないので当時のままのもの。

昭和20年3月18日に空襲を受けて以来は、こちらに本部が移転されたということで、その地下道で寝泊まりをされていた方もおられたそう。
しかし湿気が酷くて火山灰の埃でザラザラになって、なかなか仕事が思うように進まないので、目の前の集落に間借りさせて貰って、近くの公民館で海軍さんが作る朝食をとってこちらに働きに来ることになったのだそうです。

地下壕を進むと、左手にコンクリートで補強された場所が。

〖魚雷調整場跡〗です。

ひみつ基地ミュージアム (10)
ひみつ基地ミュージアム (10) posted by (C)furosky

これだけ大きな施設がそのまま残っているところはなかなかないのだとか。
恐らく全国探してもここだけではないかと思われていて、とても貴重なものです。

ここでは実際に飛行機のお腹に付けていた航空魚雷が作られていました。
終戦時には魚雷の頭が8個、胴体が10個残っていたという記録があるそうです。

当時の航空魚雷は直径が45cm、長さ5mくらいの小さなものでしたが、非常に性能が良かったそうです。
アメリカ軍が一番驚いたのは、その航空魚雷の性能だったという話もあり、今でもアメリカの海兵学校の中庭に、当時の航空魚雷の模型が置いてあるのだとか。

日本軍が作った航空魚雷は、パールハーバーを行うために改良されたものです。
真珠湾攻撃は飛行機で空襲するというのが決まっていたので、航空魚雷を使うしかなかったのですが、それまでの航空魚雷は凄く深く潜るものでした。でもハワイの真珠湾は「湾」なので水深が浅いのです。
そのため、浅いところを潜航する魚雷を開発していて、その性能の良さ、技術力の高さにアメリカは非常にびっくりしたと言われています。
その航空魚雷が恐らくここで作られていたと推測されています。

ひみつ基地ミュージアム (11)
ひみつ基地ミュージアム (11) posted by (C)furosky

天井には何かを吊るしていた跡が。

ひみつ基地ミュージアム (12)
ひみつ基地ミュージアム (12) posted by (C)furosky

恐らく魚雷を装填するために、吊るすための何かが付いていたと思われます。
ただ、この魚雷調整場は何の資料も残っておらず、どういう状態で工場が動いていたのかが全く分からないのだそう。

このセメントも、戦時中に作られた当時のままのセメントです。

私から見ると、戦時中なのにきっちりと精巧に作られているな~と驚いたのですが、分かる人が見ると、ここのセメントは荒いのだそうです。
本来、海軍が作っているコンクリート施設は質の高いコンクリートで作られていて、ここのように荒いところはないのだそう。
良く見ると、小石が混じっているのが分かります。
やはり急いで作った分、荒くなっていて、小石がいっぱい入っており、そこからも、どれだけ急いで作ったのかがわかるのだそうです。

ひみつ基地ミュージアム (13)
ひみつ基地ミュージアム (13) posted by (C)furosky

この地下壕は、漢字の「田」の字を変形させたような形をしており、縦の3本の壕と横の壕で繋がっています。

ひみつ基地ミュージアム (14)
ひみつ基地ミュージアム (14) posted by (C)furosky

そして2本目の魚雷調整場。(写真はないです)
魚雷を扱う施設なので、万が一魚雷が誤爆したときに隣が延爆しないように、わざと入口を互い違いに作ってあるのだそうです。

ひみつ基地ミュージアム (15)
ひみつ基地ミュージアム (15) posted by (C)furosky

設営隊でここに来られていた方のお話では、魚雷を調整するための物資が遅れていて、空っぽの状態のときがあったそうです。
それを見かねて、ここに神社を作りたいというお話が出たそうで、兵隊の中に元宮大工の方と元神主の方がおられたそうで、
宮大工さんに神社を作って頂き、神主さんに祝詞を挙げて頂いて、ここに神社が出来たっていうお話があるそうです。
これは初期の頃の話なので、その神社はとっくにないそうですが。

他にも、九三式中間練習機「赤とんぼ」がここに収納されていたのだそうです。
赤とんぼは羽を広げると10mくらいありますが、非常に画期的で羽が取り外せたそうで、本体を入れて両脇に羽を立てかけて収納されていたそうです。
また、赤とんぼは一般的にオレンジの機体で表現されますが、実際は戦争末期には、目立つからという理由で凄く濃い、黒に近い緑色に塗り替えられていたそうです。

赤とんぼのボディーは何と布張りだったのだそうで、絹の布が張ってあったそうで、それに塗装を施してあったそうです。
連合軍が入ってきたときには、ボディーが布だったので、赤とんぼを集めて一気に燃やしていたのを、良く覚えていらっしゃるそうです。
そのため、赤とんぼは実機が一つも残っていないのだとか。

また、終戦した後、復員される方々が何千人と乗った列車が事故にあって、ひっくり返ってしまい、乗られていた方々が殆ど亡くなられたのだそうです。
せっかく終戦で命があったんですけど、亡くなられてしまったという悲しいお話も聞きました。

また、戦後はこの辺りにある壕や穴は、農機具を収納したり倉庫として使われたりしていたのだそうです。
そのため、危険なので埋め立てるといった話も起こらず、70年以上も壊されもせずに残ったのだそうです。

また、海軍の施設は大体利便性の良いところにできており、その後の発展の中で良い場所に出来ているので、市街地開発が入っているのですが、ここ錦町は、今は非常に利便性の良くない場所となっているので、市街開発が一切入らず、70年以上も手つかずのそのままの状態で残っているということです。

そのような理由が重なって、錦町では当時のままの状態で残っている戦争遺跡が数多くあるのだそうです。
今後非常に重要な施設になっていくのではないかと思われます。

体験者のお話を織り交ぜて、とても詳しくガイドして頂き、とても価値のある体験をさせて頂きました。
また人吉近郊を訪れたときには再訪したいと思います。


*✽ 福岡発!! 九州観光ガイド ✽*




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ひみつ基地ミュージアム 球磨郡錦町 戦争遺跡

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