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〖浦上天主堂〗 in 長崎県長崎市

長崎市街地へやって来ました
今回の目的は、浦上で被爆遺構を巡ろういうものです。

浦上天主堂の前を通り・・・

浦上天主堂 (1)
浦上天主堂 (1) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (2)
浦上天主堂 (2) posted by (C)furosky

取り敢えず駐車場へ。
それから浦上地区を散策
徒歩で回れる範囲内に、沢山の被爆遺構や平和祈念スポット、またキリシタン関連のスポットがあります。



生憎雨が降り出してしまい、浦上天主堂へ戻ってきました。
浦上天主堂の近くに、『浦上街道』 の説明板があったので、パチリ

浦上街道


それでは浦上天主堂へ

浦上天主堂 (1)

生憎の雨 ☔ だけれど、そのおかげで人が少ない。

浦上天主堂 (5)
浦上天主堂 (5) posted by (C)furosky

浦上はキリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地でした。
明治になって禁教令が解かれた後、1879年(明治12年)に小聖堂を築いたのが浦上教会の始まりです。

その後、当時東洋一と言われた大聖堂が、明治28(1895)年に起工し、大正14(1925)年に完成するまで、30年の歳月をかけて建てられました。
ロマネスク様式の大聖堂で、正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられました。

しかしながら、1945年(昭和20年)8月9日11時2分の長崎への原子爆弾投下により、爆心地から北東へ約500mという位置にあった浦上天主堂は爆風によって一瞬にして崩壊。

被爆当時の遺壁の一部は、『平和公園』 内にある原爆落下中心地に移設されています。

浦上天主堂の敷地内にも、被爆当時の聖人像や石像、アンジェラスの鐘などが保存展示されています。

浦上天主堂 (7)
浦上天主堂 (7) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (10)
浦上天主堂 (10) posted by (C)furosky

原爆の熱線で黒く焦げたり、鼻や腕、指がもぎとられたり、頭部を欠いた石像が戦争の悲惨さを伝えています。

浦上天主堂 (9)
浦上天主堂 (9) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (2)

それでは、浦上天主堂の中を拝観します。
天主堂内は撮影禁止 🚫

浦上天主堂 (12)
浦上天主堂 (12) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (13)
浦上天主堂 (13) posted by (C)furosky


浦上天主堂

昭和20年(1945)原爆により倒壊し、主任司祭の西田三郎神父らと信徒20数人が犠牲となったほか、
当時の浦上カトリック信徒約12,000人のうち約8,500人もの尊い命が奪われました。
昭和21年(1946)戦後の苦難の中にあって、生き残った信徒達の手で木造の仮聖堂が建設され、
昭和34年(1959)には現在地に鉄筋コンクリート造の聖堂が再建されました。
昭和56年(1981)ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来訪され、叙階ミサが挙行されました。
現在、聖堂入口両脇には「悲しみの聖母」像と「使徒聖ヨハネ」像が、被爆マリア像小聖堂には
瓦礫の中から奇跡的に発見された「被爆マリア」像と、無原罪のマリア像復元造型(レプリカ)が
安置されています。
また、隣接する使徒会館内には破壊された左鐘楼の小鐘等が展示され、被爆の実像と平和の大切さ
を伝えています。




浦上天主堂 (14)
浦上天主堂 (14) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (15)
浦上天主堂 (15) posted by (C)furosky

👇 聖堂入口の「悲しみの聖母」像
浦上天主堂 (16)
浦上天主堂 (16) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (17)
浦上天主堂 (17) posted by (C)furosky

👇 聖堂入口の「教皇ヨハネ・パウロ二世」像
浦上天主堂 (18)
浦上天主堂 (18) posted by (C)furosky

👇 聖堂入口の「使徒聖ヨハネ」像
浦上天主堂 (19)
浦上天主堂 (19) posted by (C)furosky


👇 聖堂前にある「信徒乃碑」
浦上天主堂 (20)
浦上天主堂 (20) posted by (C)furosky

聖堂の正面には、『信仰乃碑』 があり、そこに浦上天主堂の歴史と由来が記されていました。

浦上天主堂の歴史と由来
浦上天主堂の歴史と由来 posted by (C)furosky

信仰乃碑の垣根の中には、『拷問石』 という石が安置されています。

👇 拷問石
浦上天主堂 (21)
浦上天主堂 (21) posted by (C)furosky


拷問石

明治四年六月中旬、長崎浦上切支丹教徒二百六十名は、博多の獄舎より転送せられて萩に来り、堀内岩国屋敷に
収容された。
萩での食事等の対偶は博多より余程良かったが、それでも明治五年四月の帰国までには、相当の死亡者(二十八人)
を出している。其の間、信徒は獄吏、神官等より改宗の説諭を受けたことは勿論であるが、中々転向しないので、
遂には非常手段として、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方法が用いられた。その時、信者が座らされた石に
「拷問石」と呼ばれるものがあり、それには切支丹の尊敬名誉の表章である十字架が刻まれてある。石は花崗岩の
庭の飛石であった。
此の「拷問石」は牢番長であった寺本源七氏が、大正元年頃堀内から持ち帰り、自宅(萩市春若町)の庭に据え
置かれ、霊を慰めたとされる。
その後、子孫英吉氏が保存されていた。(萩の史実より抜粋)
萩教会の信徒で郷土史家・宮木忠雄氏が大変苦労されて寺本氏から譲渡を受け、萩教会に保存されていたものである。
二〇〇八年七月十日、宮木氏が「浦上に置いたが一番有意義である」と判断されて寄贈され、ここ浦上天主堂に
安置された。
なお、「拷問石」の底面には十字架が刻まれ、傍らには「經石」が備えてあった。寺本源七氏が堀内から持ち帰った
後、供養の意味で拷問石の下に埋め込んだものだろう。
「拷問石」の上に太めの茎で編んだ葦簀(よしず)を敷き、全員がその上に座らされて拷問、説諭を受けたが、
その中でも最も有名な拷問が「寒ざらしのツル」の話である。二十二歳のツルは裸にされて十八日間(昼間)の
拷問を受け、一週目には大雪と成り、雪の中に晒され、十八日目に雪の中に倒れた。それでも彼女の強い信仰心を
改心させる事はできなかった。(旅の話)
此の「拷問石」の入手については、平野勇師の「殉教者の霊性」を如何に子孫が受け継ぐかの司牧的熱意によって
実現したものである。




浦上天主堂 (22)
浦上天主堂 (22) posted by (C)furosky


浦上天主堂にある信徒会館・売店ピエタでは、原爆で壊れた旧天主堂北側鐘楼にあった聖鐘、焼けて変色したレンガや瓦、燭台や聖器具などを展示しています。

👇 信徒会館・売店ピエタ
浦上天主堂 (23)
浦上天主堂 (23) posted by (C)furosky

👇 ピエタ前のマリア像
浦上天主堂 (3) ピエタ前

👇 無原罪の聖母と青銅のキリスト
浦上天主堂 (6)

👇 聖体顕示器(オステンソリウム)
浦上天主堂 (24)
浦上天主堂 (24) posted by (C)furosky

👇 被爆前の浦上天主堂の写真
浦上天主堂 (25)
浦上天主堂 (25) posted by (C)furosky

👇 キリスト架刑像
浦上天主堂 (7)

👇 聖体奉置の燈明台
浦上天主堂 (26)
浦上天主堂 (26) posted by (C)furosky

👇 教会廃壁の一部と聖人の頭
浦上天主堂 (27)
浦上天主堂 (27) posted by (C)furosky

👇 破壊された長崎の鐘
浦上天主堂 (28)
浦上天主堂 (28) posted by (C)furosky


長崎の鐘

1926(大正14)年に完成した浦上天主堂の鐘楼に吊るされたフランス製の大小2個のアンゼラスの鐘は、
1945(昭和20)年8月9日の原爆によって、小さい方は壊れてしまいましたが、大きい方はほとんど完全
な状態で瓦礫の中から見出され、原爆投下の年のクリスマス・イブに、三本の杉丸太を組み立てた急造
の鐘楼に吊るされ、荒野と化した浦上の丘に鳴り響き、信徒をはじめ多くの市民を力づけました。
永井隆博士が『新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け 長崎の鐘』とうたい以降、浦上天主堂の
アンゼラスの鐘は「長崎の鐘」と呼ばれるようになり、今も朝・昼・夜“天使のお告げ”を鳴り響かせ
ています。




👇 被爆前の旧浦上天主堂の模型
浦上天主堂 (4) 旧浦上天主堂模型

👇 売店ピエタ
浦上天主堂 (5) 売店ピエタ

使徒会館・売店ピエタ前から見た浦上天主堂です。
被爆した聖人像が並んでいました。

👇 ピエタ前から写す
浦上天主堂 (29)
浦上天主堂 (29) posted by (C)furosky


浦上天主堂の横、アンジェラス通り側に横たわる、原爆により落下した 『アンジェラスの鐘』 を見に行きます。、


👇 原爆によって吹き飛ばされ、この位置に落下したアンジェラスの鐘
浦上天主堂 (34)
浦上天主堂 (34) posted by (C)furosky


原爆により崩れ落ちた浦上天主堂の鐘楼

爆心地より北東へ約500メートルの小高い丘の上に建つこの赤レンガ造りの浦上天主堂は、原爆により崩壊
したが、被災前の天主堂は浦上の地に暮らしていたカトリック信者たちが、1895年(明治28年)から赤レンガ
を一枚ずつ積み上げて30年の歳月をかけて建てた、当時としては東洋一の偉容を誇る大聖堂であった。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分。原子爆弾のさく裂により、天主堂はほとんどが破壊され、その後
かろうじて残っていた堂壁や鐘楼も崩れ落ち、一部の堂壁だけが残った。崩れ落ちた鐘楼の一つ(重量約50トン)
が現在もこの地に原爆被害の跡をとどめて眠っている。
爆心地に程近い当地区は、17世紀初頭に始まるキリシタン禁令の時代からカトリック信徒の多いところであり、
原子爆弾はこのカトリック信徒の聖地にさく裂し、約12,000名の信徒のうち約8,500名が犠牲となった。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを
願って、この銘板を設置する。




浦上天主堂 (35)
浦上天主堂 (35) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (31)
浦上天主堂 (31) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (33)
浦上天主堂 (33) posted by (C)furosky

浦上天主堂 (32)
浦上天主堂 (32) posted by (C)furosky

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  浦上天主堂
  長崎県長崎市本尾町1-79

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┃福┃発┃ \ 福岡発!! 九州観光ガイド / 
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浦上天主堂 長崎市

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