〖サンタ・クララ記念碑〗 in 長崎県長崎市
長崎市の浦上地区を散策しています 
国道206号線沿い、浦上川にかかる大橋のたもとで、〖サンタ・クララ記念碑〗 を見かけました。

サンタ・クララ記念碑 (1) posted by (C)furosky

サンタ・クララ記念碑 (2) posted by (C)furosky
サンタ・クララ教会はポルトガル船員が建てた教会で、禁教令で破壊された後も、浦上のキリシタンたちは
サンタ・クララの祝日(新暦8月12日)とサンタマリア御上天の日(新暦8月15日)のころ、盆踊りでカムフラージュして
この教会跡に集まり、祈ったのだそうです。
信徒発見後は、ここに秘密教会ができたのだとか。
秘密教会とは、信徒発見後も信仰の自由がなかった浦上のキリシタンたちが、慶応元年(1865)から3年間、
大浦天主堂から密かに神父たちを迎えて、洗礼を受け、ミサにあずかり、教えを学ぶために作った
4つの教会のことで、大浦天主堂の巡回教会としていたのだそうです。
しかし、潜伏キリシタンからカトリックになったことで、それまでカモフラージュの為に受け入れていた
仏式の葬式を断ったことから、これらの教会が発覚し、集まっていた高木仙右衛門ほか68人が捕らえられ、
最後の迫害である慶応3年(1867)の「浦上四番崩れ」が始まりました。
┏━┳━┓
┃福┃発┃ \ 福岡発!! 九州観光ガイド /
┗━┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━

国道206号線沿い、浦上川にかかる大橋のたもとで、〖サンタ・クララ記念碑〗 を見かけました。

サンタ・クララ記念碑 (1) posted by (C)furosky
日本におけるキリスト信者発見百周年記念日の1965年(昭和40年)3月17日、ローマ教皇パウロ六世の
特使マレラ枢機卿により、このサンタ・クララ教会記念碑は祝別された。
この地に1603年(慶長8年)に建てられたサンタ・クララ教会は、イスパニア人の宣教師アウファレス
神父が司牧する浦上では、当時ただ一つの教会だった。
徳川幕府のキリシタン禁制によって、この教会が破壊されたあと、教会で働いていた孫右衛門は、神父を
失った村人の間に、帳方(ちょうかた)・水方(みずかた)・聞役(ききやく)という“潜伏キリシタン”
の地下組織をつくって信仰を固めた。
その後の250年、村人たちは、この教会の跡を祈りの場としていた。毎年夏になるとここに集まり、
盆踊りをよそおって祈りをとなえたという。
司祭のいない迫害の時代に、信者の指導者が信仰を伝えるために献身し、信者発見後は、司祭・信者が
一体となって働いた使徒職活動を記念すると共に、この教会の保護者だった聖女クララのご伝達を祈る
ために、このサンタ・クララ記念碑が建てられた。

サンタ・クララ記念碑 (2) posted by (C)furosky
サンタ・クララ教会はポルトガル船員が建てた教会で、禁教令で破壊された後も、浦上のキリシタンたちは
サンタ・クララの祝日(新暦8月12日)とサンタマリア御上天の日(新暦8月15日)のころ、盆踊りでカムフラージュして
この教会跡に集まり、祈ったのだそうです。
信徒発見後は、ここに秘密教会ができたのだとか。
秘密教会とは、信徒発見後も信仰の自由がなかった浦上のキリシタンたちが、慶応元年(1865)から3年間、
大浦天主堂から密かに神父たちを迎えて、洗礼を受け、ミサにあずかり、教えを学ぶために作った
4つの教会のことで、大浦天主堂の巡回教会としていたのだそうです。
しかし、潜伏キリシタンからカトリックになったことで、それまでカモフラージュの為に受け入れていた
仏式の葬式を断ったことから、これらの教会が発覚し、集まっていた高木仙右衛門ほか68人が捕らえられ、
最後の迫害である慶応3年(1867)の「浦上四番崩れ」が始まりました。
┏━┳━┓
┃福┃発┃ \ 福岡発!! 九州観光ガイド /
┗━┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━
スポンサーサイト